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「至誠にして動かざるは、未だ之れ有らざるなり」吉田松陰

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2016年 新年明けましておめでとうございます。本年もクレストデジタルズ渡部をよろしくお願いいたします。

さて、週末は大河ドラマ”真田丸”が始まり、楽しみが一つ増えました。

徳川との2回の籠城戦に真田は勝利。ブラタモリでタモリさんがその上田を探求してましたが、川の上に街並みをつくり、いざというときは取り壊され、お堀の役割を果たすなど、侵略を前提につくられた城を見ているだけで男心がどうにかなりそうです。

2回目の上田城での戦い。江戸から北回りの中山道をとおり徳川家康の息子秀忠は関ヶ原の戦いに向かいます。上田で真田の籠城策に敗れ、先陣をつとめるはずの徳川軍が合戦に間に合わないという大失態。このことで家康は恩賞を多大に西の大名に払うこととなり、日本の西側の勢力は幕末まで勢いを残す事となった。真田の大和魂そこにありです。

毛利家は関ヶ原の戦いで西側の総大将となり破れ、山口だけが領国となりました。その長州からでた吉田松陰の門下生が倒幕に向かい、明治維新という事が成った。吉田松陰は、「忠義の男」古くは楠木正成、赤穂浪士、真田家の歴史から「志のなんたるか」学び読書から己を磨いて行った。武人が敗れて残したのは、その屍をこえた「志」。その希有な歴史の中を、千曲川の水量のように燃えたぎる熱いエネルギーを、いかに表現してくれるのか楽しませてくれるのが大河ドラマの見手の楽しみです。

2015年の大河ドラマは「花燃ゆ」でした。視聴率が最低だという事ですが、僕は今までの大河の中で堂々NO1の大河だったと思います。特に吉田松陰が登場した前半1/3が秀逸でした。それからは大奥や、フィクションのようなストーリーが盛られ、見るのをやめた人も多かった事でしょうが、マスコミは視聴率がどうのこうのばかりをニュースにする、最後まで見てないひとに、文句を言う資格はないと・辟易としていました。これは、日本人の悪い癖です。

「至誠にして動かざるは、未だ之れ有らざるなり」吉田松陰

至誠を持ってすれば、動かなし得ない事はない。獄にはいり、死刑となり、志に殉じるようにその生涯を終えた。「死にあたり、私が私でいられるであろうか?」とその言葉を見つめるシーンなど心にしみました。死刑になるのも、自分の至誠が足りなかったとでも言いたかったのでしょうか。

このドラマでなんども問われることば

「君の志なんですか?」

吉田稔麿が江戸藩邸でつとめたいと言う

「君の志はなんじゃ」松蔭

「ただ学びたい」稔麿

「学んでどうする」松蔭

「この国を守る」稔麿

「どのように守る」松蔭

「ですから、それを学ぼうと」稔麿

「今この場所で己を突き詰め、志を見つけられんものに、何ができる。君のようなもんが江戸へ行っても、無駄です。」松蔭

それから稔麿は、江戸帰りの船番人から江戸の暮らしをきき、何を食べ、何に悲しみ、何を笑っているのか、異国の文明をどう恐れているのかなど、知行合一で志を磨いていく。

自らの実践で出たものは、空論ではない。

松蔭は言う

「その志、しっかりと受け止めた、身分の上下、下らん建前すべて、志の前では一文の価値もない、古い考えに縛られてはならん!諸君狂いたまえ!」

稔麿、江戸へ

「僕がこの世の中で、一番恐れているものがわかるか」

「何事も成さんことじゃ、何事も成そうとせんことじゃ」

「志の果てに向かえる、死以外に死にとうない。断じて!!」

目先の誘惑に足下をすくわれてはならない。

松陰先生は、本を読むとき半分のエネルギーを筆記に費やせという。(この作業を抄録という。)だから、大河ドラマを見ながら、良い言葉は筆記しながら見ていた。

熱にほだされたように留魂録を読んだ。なぜ野山獄で3畳部屋で本を読み続け、囚人に講義をしたりできるのか知りたかったのです。あなたは「利」で生きていないか?成果が上がりそうなら行動するが、成果が上がりそうでなければ行動しないという発想が気に入らないという、時と場所を選ぶ態度が気に入らない。

誰かが立ち上がらなければならないと思ったときには、その行動によって、何かがかわる可能性が高かかろうが、低かろうが、死のうが「結果」などは何も考えず、真っ先に自分が立ち上がるべきなのだ。「死ぬ覚悟はある、じゃが無駄死はせん。時がくる、今ではない、そう言い続けて何もなすこともなく人生が終わるんじゃ。声を上げん者に、声が届かん者の気持ちはわからん。事をなさん者に、失敗した者の気持ちはわからん、いつだってお前は見物するだけじゃ、口先だけは立派なことを言って、何の行動もせず、そういう人間を僕は最も恨む。」

獄にはったときでも、死ぬ間際でも己のために勉学に励む、それは命の水が涸れないように、井戸を掘っているようでもあり、そうしなければ自分という存在の立脚点が消えてしまいそうになるようだ。

志士とは高い理想を持ち、どんな境遇にあっても、心の持ち方、その節操を決して変えない人のことである。死を覚悟し、それは望むところで有り、人生で起きるそれらの出来事に、いちいち動揺してはなりません。いちいち動揺しているから、“正しく生きる”ということを、自分の人生で実現できないのです。

「草莽崛起」

「事をなす者は今後、名もなき者の中から出てくる。身分も位も関わりない。奮励努力した者が必ず志を成し遂げる。じゃから共に励もう。」

「花燃ゆ」で坂本龍馬は言う

吉田松陰はみんなをつなぐ。

この国の志ある者みんなを。死してなお生き続ける。

れが吉田松陰。まっこと男の中の男。

わしもやるき。

何物にもとらわれん。我がなす事は我のみぞ知る。

長州藩 毛利敬親は言う

決めておる事がある

藩主として余はいまだ迷い

自問自答を繰り返す身じゃが

志ある者の邪魔立てだけは

すまいと決めておる

なぜなら

誰しもその命潰(つい)える刹那

「生ききった」

そう思うてほしいからじゃ

背中を見送る時は

常に願うておる。

「行け。 輝け」と。

ちょっとばかり長くなってしまいましたが

信念のご挨拶に代えて、今日はこんなところです。

 

投稿者プロフィール

ワタナベ マサヤス
ワタナベ マサヤスライター & IT会社経営
 人生の楽しみに旅を選択したことに、1mmの後悔もない。旅先で飲む珈琲はなんでうまいんだろう、孤独と自由が握手する。飛蚊症でブログを休んでました。再開します(^o^) 

《プロフィール》
 海外旅行150回くらい、国内旅行は何回か忘れました。(笑)お遍路四国八十八カ所結願。片足はIT会社経営、もう片足は旅行を楽しむこと!
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