週末土曜日に久し振りに、街に出ておふくろと二人でカウンターで食事をした。
予約時間までのひとときを、結婚式帰りのほろ酔いの若者が昔話に花が咲かせ、騒がしい人いきれの街中で大街道のベンチに二人座り、おふくろの青春時代の話に耳を傾けた。僕は、たまにこうして街中でおふくろ昔話を聞くのが趣味。
おふくろの郷は、東温市の牛渕。祖先は庄屋をしていたそうだ。その一族は婚姻に関しては、今と一風変わっていた。親戚の端と端で結婚し、一族の結束と、財産と、血を守ってきたのよ、とおふくろは笑いながら語る。
一族の勤め先は、教育関係がほとんど。いわゆる、”はとこ”同士あたりで、一族の世話好きな叔母さんが、先生と呼ばれる職業の結婚相手を見つけてくる。考えように関しては、一種異様なことだ。そういえば僕が、高校の時に学級の副担になった先生は母親の”はとこ”だった。
親戚一同が羊たちの群れのように、おっとりとしていて、棘がないのが不思議。血というのは神秘に溢れていると思うのだけど、どうだろう。たとえば僕の叔父さんの奥さんは、ご主人さんが怒ったのを一度も観たことがないらしい。そしてその息子もおとなしいが博士肌。ともかく昆虫、は虫類が好き。小学校のときには家の外に彼専用の大型冷蔵庫があり、蛇や幼虫などを保存し、見たことのないような異様な世界感が立ち上がっていた。それを許した彼の母親もたいしたもので、今は進化して愛媛県総合科学博物で変態1号の研究員をしている。
おふくろは高校時代から、叔父さんが経営する大街道の「西洋軒」というレストランの2Fで、夏休みなどは泊まり込みで子守をしながらアルバイトをした。叔父さんは、青島でおもちゃ屋を経営した後、終戦を経て松山にもどり、アイスクリーム屋で一財産をつくり、当時ではハイカラなレストラン「西洋軒」を松山に出した。
だれにでも人生を横切る出会いという縁糸。進駐軍のコックさんとの出会いが線に変わり、ライスグラタンや、カルボナーラーなど、小粋なメニューが松山の女性に火をつけてこの店は大ヒットした。ちょうどコカコーラという一つの異端が登場し、カタカナメニューに憧れていた時期でもあった。シャリアピン・ステーキなんて、名前だけで売れていたらしい。(笑)
昭和35年当時(母21歳)、大街道の「西洋軒」はレストランでありながら、夜の12時を越えて営業。キャバレーがはねて、お客さんが食事にきたり、釣りはいらないという気っ風のいい客もゴロゴロ。そして、今話題の大街道のドーミンイン松山のところにあったラジウム温泉に深夜行っていたらしい。
そんな、一族のやさしいムードの中、「西洋軒」に一人の男があらわれる。「高校時代に横河原線の電車に乗っていたんだけど、覚えてますか」とインデアンみたいな野生人が親父だった。親父は毎日同じ客車に乗っていたそうだけど、まったく知らなかった(中略)しばしの時が流れ、おふくろは親戚ではじめて、羊の群れから飛び出して結婚した。
そうね、食事の時にお茶がないといらいらしていたわよね、いらちな性格で、ある日台所の窓の木のさんに、「お茶」と書いてたのよ、よく怒られたものよ、そう言って親父の昔話をしながら笑い飛ばす。でもね、毎日毎日明けても暮れても「お茶」、「お茶」と言ってたくせに、私にお茶を入れてくれたのは人生で一回もないのよ(笑)。それって親父にいったの?と訊くと、おふくろは「それは言わないのよ」と気たかく答えた。
ひとしきり時間が流れ食事へ、二人の真ん中には昔話ばかりがあって、それがただただ楽しくて、美味しい食事をしたのでした。
「この一瞬が、永遠であり。この永遠は、一瞬」
そんなことを、頭の上になんども吹き出しをつくりながら・・・。
今日はこんなところです。
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ワタナベ マサヤスライター & IT会社経営
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人生の楽しみに旅を選択したことに、1mmの後悔もない。旅先で飲む珈琲はなんでうまいんだろう、孤独と自由が握手する。飛蚊症でブログを休んでました。再開します(^o^)
《プロフィール》
海外旅行150回くらい、国内旅行は何回か忘れました。(笑)お遍路四国八十八カ所結願。片足はIT会社経営、もう片足は旅行を楽しむこと!
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