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2016年7月4日

お遍路逆打ち10回目(全16回)

ネタ帳ラボ!一期一会

おはようございます。クレストデジタルズ渡部です。

梅雨明けの夏はコントロールを失い、お天道様はブレーキがいかれたように暴走しているようだ。かち割り氷水でも浴びたい気分の中、お遍路逆打ち10回目(全16回)、バスは超満員でふくれあがっている。

全国からお遍路バスツアー巡礼者たちは、60年に一度の申年閏年お遍路の現世御利益を期待しいるのかだろうか、その大群は1月に88番札所を出発し、徳島県、香川県を廻り、今はちょうど私の住む松山あたりにいるようだ。こちらは愛媛から出発し、高知、徳島を廻って、最後は愛媛で結願となる変則のコースだだ。

今日のミッションは八番札所熊谷寺から一番札所霊山寺へ。八ヵ寺は密集して位置している。夏でも平場なら、なんとか脚足は最後までもちそうだ。(笑)

どうやら四国遍路をスタートする序盤戦の一番から八番までは、巡礼者がモチベーションがきれないように、平場で足慣らしが設定されていて、体力と健康のヘルスチェック区間である。徳島県(阿波)の23ヵ寺は、発心の道場ともいわれる。

このお遍路のバスは女性であふれている。本当に女性が元気だ。男は萎えている。数名の男性が一人で参加しているけれど、肉食系というよりは、こころ穏やかな人が多い。私は、一緒に廻っているそんな男達が大好きだ。

この世の中の男達は定年を向かえると、ぐったりしている。何か変化したいという欲望や革命を失っている。もう、出世することはない、競争もない、攻撃本能は悲しいほど減退している。喜怒哀楽を楽しめるのは、圧倒的に女性という性だ。

一方、職人気質の男達は、どうだろう。プロフェッショナルになるために自分の性をすててきた。たとえばフレンチのコックなど料理人は男が圧倒的に多い。男達は、喜怒哀楽を制御できるのだ。女は喜怒哀楽に影響されやすい、喜怒哀楽がモロに料理の味にでる、男は技術的なことにおいては、あきれるほど冷静だ。これらは、制度という社会で、男となるために競争社会を生きてきた男達の運命のようにもみえる。

元々、ちょんまげ時代は、女性が知性を持つことを男性が許さなかった。娘は親の決めたところに嫁に行かなくてならない、そして嫁げば、毎日が料理、選択、畑仕事、子育てに追わた。今は15分で米が炊けて、電子レンジ、ルンバ、コンビニ、育児所など、女性のライフスタイルがかわってしまった、枷から解かれると女性は性をとりもどした。男達は、なにをすればいいのかわかっていない。女性の取扱説明書を太宰治に書いてもらいたいくらいだ。男達は、名誉か、階級でも与えれば元気になるかも知れない。これから、男の末路はかなり厳しい。食糧危機もない、戦いもない、無駄に時間がある。プライドを得る場所がない。

なんかまとまりを失ってきた。(;゚ロ゚)

お遍路で女性ばかりのバスだからこそ、そんなことを考えてしまう。イイ機会かもしれない。男は、今戦い、誰にも味わえないようなプライドの思い出を持たなければ、生きていながら、死んでいるようなもんだ・・・
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旅のエッセイ
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ボクはクリームパンを見ると、香港の銅鑼湾(コーズウェイベイ)で現地のガイドさんが案内してくれた傑作な屋台を思い出してしまう。そこは路地裏の、パイプ椅子や朽ちたテーブルが乱雑に並ぶ、決して衛生的とはいえない店だった。アスファルトの広東語で書かれたメニューをガイドさんが訳してくれると、ホットコーラとか珈琲と紅茶のミックスなど、いかにもミスマッチングな言葉が跳んでくる、ボクはドッキリでも仕掛けられたんじゃないかと思えるほどのカルチャーショックを喰らった感じで、香港映画Mr.BOO!ミスター・ブーのワンシーンに入り込んだように思えてきて、店内の丸メガネのお客を見ていると、彼らがあの映画に出演している役者のようにも見えてくるほどだ。
やがて注文したホットコーラーが登場した。一口飲むと「うまい!」と叫んだ。はじめて飲んだ味だったが、イケてる。砂糖か蜂蜜かいれているのだろうか、それとも興奮状態の心がそうさせたのだろうか?
そして衝撃は次のクリームパンと同時に押し寄せた。店員さんが無造作にテーブルに置いた、皿の上のクリームパンはこの世ならざるものだった。パンの真ん中に日の丸のようなクリームの池が広がり、そこには焼いたバッタの姿見が横たわっていたのだ。「なんじゃこりゃ!」と叫ぶボクを見ながら、現地ガイドが腹をかかえて笑いこけていた。 食べてみると、カリカリ、コリコリ音がするものの、妙な気分が押し寄せて頭が先に食べている感じはするが、これまた美味だった。正直まいった。
旅というのは、ただならぬ出会いがあるというのは、いったモノにしかわからない話なのだ。それにしても、香港というのはこんなブラックユーモアーがまかり通るとは、軽いショック状態に陥りながらも、旅の楽しさの洗礼をうけた銅鑼湾は思い出の場所になった。その後、香港の銅鑼湾(コーズウェイベイ)には何度もおとずれ、ボクはこの世ならざる体験ばかりを繰り返していくのだった。

2016年6月27日

イチロー名言「すまん!俺のせいだ、なんとかしてくれ!」

ネタ帳ラボ!一期一会

ボクはいまイチロー選手を追いかけています。

イチロー選手は42歳。今シーズンはプロ解説者の誰もが3000本安打達成は難しいと予想していた。出番が少ない4月。イチロー選手にまさかのまさか!「代打の代打」25年目で初屈辱、その時の彼の唇を噛みしめていた映像が、脳天からはなれない。昨シーズンの打率が229だったのを考慮されたのか、代打の捨て駒に使われたのだ。しかし、その根絶やしできない屈辱に熱せられるように、無言で不死鳥のように、孤独の皮膚を纏いながらイチローは蘇った。すでに日米通算通算安打でピートローズの4256本を越えて、今度は米国での3000本安打まで、残り16本となり、7月中の達成も予想される。
思い出すのは2009年韓国を自らのセンター前ヒットで決め優勝したWBC。WBCではイチローは絶不調だった。12打席無安打。そのキューバ戦で12打席目は進塁のバンドを自ら選択してアウトになるという絶望的な状況。その時イチローはベンチにもどり声を荒げた。

 

「すまん!」「俺のせいだ、なんとかしてくれ!」

 

原監督は、その言葉にしびれたという。誰もが言えんのですよ、そんなことばを、みんなの前で、そういう大切な場面で。

人間の言葉を、限りなく削ると。「ありがとう」と「ごめんなさい」の2つになる。この2つの言葉で生きてゆける。

「ありがとう」はみんなよく使う、一方「ごめんなさい」は言えない人が多い。「ごめんなさい」に正直になれないのは、人間の弱さなのか?開ききって100%ごめんというのは、もともと言いにくい気もする。そうだ「ごめんなさい」は微妙に使いにくい。丁寧すぎるというか、馴れてないというか、日本語ならでは欠点ではないだろうか。英語ならI’m sorryで言いやすい。

そのかわり「すまん!」というのは男は使いやすい。(女性なら「すみません」だろうか)辞書で引くと「きまりがわるい」と書いてある。この言葉「すまん!」は、リーダーたちにとって魔法の言葉だ。「すまん!」のあとには、なにかすでに無意識に、かならず「俺が挽回する」の力づよさがひめられている。イチロー選手はもっと凄い。「すまん!」のあとに「俺のせいだ、なんとかしてくれ!」とみんなのこころに飛び込んだ。そこにいた、監督、選手、仲間達は体に電流が走り、内臓と内臓がこすれ、止めようのないアドレナリンが流れたのではないだろうか。

男女のけんかで、男は「100%、俺が悪かった」と言わなければ、そこから恋は、山の斜面を転がり、泥沼にむかうだろう。尚、ここまでは「すまん!」「俺のせいだ」と同じ意味といえる。(^O^)だが、もう一言必要なんだ、覚えておいてくれ「なんとかしてくれ!」だ。お前のすべてが大好きだから・・・「なんとかしてくれ!」と体ごと、魂ごととびこんで、100%ゆだねるしかない。(笑)

つくづく、日本語は難しいと思う。

だけど、つくづくなんと素晴らしいんだろう。

今日も「毎日がスペシャル」になりますように。

 

マーリンズ・イチロー【写真:Getty Images】

2016年6月13日

「浅知恵」お遍路逆打ち9回目(全16回)

ネタ帳ラボ!一期一会

初夏の早朝のどんよりした土曜の空は、午後への蒸し暑さの予兆をはらんでいた。この時期は1年で一番紫外線がきつい。そんな情報は、ボクの小さな一握りの人生経験のレーダーは無意識にキャッチできてしまい、そして、そんな小賢しい浅知恵の小さな悪意をボクは憎む。

金曜日の夕方、スタバにはあふれかえるほどの女子高校生がいた。それを横目でみて、表情がよめないブルドックの顔を造作し、耳の頂点をとがらせて、恋バナを盗み聴いていた。まぁ、かいつまんで言えば、「夏休み前に好きな彼に告白するか、しないか」という事なのだが、大好きな彼を遠目に探しているだけで幸せな毎日も、それが切なくて、苦しくて、告白するほどの勇気もないくせに、燃える夏の気配が彼女を後押ししているようで、彼が自転車置き場で長いメールを打っている姿に、彼女がいるのではないかと思ってしまうというのだ。この世の中には「言えなかった好きですという言葉」が、どれほどあふれているだろう。さもあれど、いつだって恋は素敵だ。

そして、大学の同窓会の理事会に出席。最後の議事連絡で理事を退任される方がいて、挨拶をされた。「身体がステージ末期のガンで、もう治療をしないことを決め、モルヒネだけの緩和ケアをしていくので退任したい」と、毅然と語られた。後任の方も推挙され、本人も了承済みだということだ。お顔だけは拝見したことがあるが、挨拶程度しかしたことがない方だった。

宴会になると、その方が隣の席になった。なんと声をかけて良いのか、とうてい酒をぐいぐい飲めるような気分にもなれないが・・・。「痛みは、いかがですか?」と問うと、「痛みはないし、発見されたときには自覚症状もなかった」とこたえられた、短いようで長くも感じられる病状をききながら、時が5分くらいは流れ、言葉が途絶え、その方はまわりの気配を感じられたのか、席をたたれ時をたたんだ。気がつくと、料理には箸をつけてなかった。最初の器の海老しんじょうがおいしかったので、せめてそれだけでも、食べてほしかったななどと思ってはみたが、せんもない。止まることのない料理の一人前を、余っているのでどうぞとすすめられ、なぜかボクはちいさな自己嫌悪に陥った。心の中で、俺なら宴会には出ないな・・などと考えていたからかも知れない。

そんなことがあって、その夜、超久しぶりに夜のひとりクラブ活動に出た。夜のひとり恋漫談は化石化している、歌にでもしないと、切なさが足りないようだ(笑)才能のない俺は、なんでも理由をほしがる。努力で才能なんて買えないと思っている、とてつもない無駄な時間と金の浪費だけが、才能を産むと勝手に信じている。そして、また理由をつける俺は、才能がない(笑)

翌朝土曜日、空がぐるぐる回る中、放埒な魂はまだ叫び声を上げていた。煩悩の修行のお遍路逆打ち9回目(全16回)。

般若心経のお経声が今までで一番、心の中にひびいている。毎日苛立っていた雑念が消えていくようだ。9回目ともなると、ゆっくりなら唱えられる。

お遍路の前日に浴びるほど酒を飲んだのは初めてだった、若いときだったらあたりまえだったことも、今は浅知恵で前日は早く寝て、体力を担保して望んでいた。まあ、へたれの根性なしだ。このお遍路旅でいつも感じることは、人生はご縁でできていると言うことだ。昨夜の引退された愛媛大学のOBの方は、お大師様の化身だったのかもしれない。何かを開かせてくれた。

人生の両端は、危険ゾーンでできている、物欲、金欲、性欲、食欲、ねたみ、うらみ、理不尽、傲慢などが暗闇をつくり、泥沼のように待っているようだ。そこに足を突っ込むこともたまには悪くない、そこには本当の俺がいる。生きているという、確かさがある。

お遍路で訪れた、9番札所法輪寺には88カ所の中で唯一の涅槃釈迦如来がある、公開されていないので心眼でみるしかない、頭北面西で、北枕でお顔を西向きに、右脇を下に寝ている涅槃の姿を表しているらしい。

北枕は縁起が悪いと言われるが、じつはお釈迦様が入滅したときにこの姿だったので、恐れ多いからですよと先達産が教えてくださった。といわれても・・・ボクはもう何十年も北枕で寝ている(;゚ロ゚)

そして、その夜、布団をすこし角度を北からずらし、意味のないことをやって眠った。浅知恵を憎むが、浅知恵を楽しむことは好きなようだ。

今日はこんなところです。

写真は四国八十八箇所を巡った伝説の人物とされる衛門三郎の終焉の地伝説が残る、杖杉庵。

最初に四国八十八箇所を巡った伝説の人物とされる衛門三郎の終焉の地伝説が残る場所に建つ寺院である。
伝説によれば、平安時代前期の天長年間(824年 – 833年)に、伊予国の人であった衛門三郎は四国巡錫中の弘法大師に行った無礼な行いを詫びるため弘法大師を追って旅に出たという。21回目に逆回りを行っている途中、四国八十八箇所12番札所焼山寺近くのこの地で力尽き病に倒れた。そこに弘法大師が現れ、衛門三郎は非礼を詫びた。大師が衛門三郎に来世の望みを訊くと、生まれ変われるなら河野家に生まれたいと望んで息を引き取った。そこで大師は「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせた。天長8年(831年)10月20日のこととされる。大師は衛門三郎をこの地に葬り、墓標として衛門三郎が遍路に使用した杉の杖を立てた。これがやがて根を張り杉の大木となったという。
この地に庵が設けられ、伝説にちなんで杖杉庵と名付けられた。なお、伝説の大杉は江戸時代中期の享保年間(1716年 – 1735年)に焼失したとされる。この頃に京都仁和寺より衛門三郎に「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られた。

2016年6月6日

永遠のゼロ、「知覧」に行ってきました

ネタ帳ラボ!一期一会

先週末の木・金で薩摩に一泊二日で親孝行旅行へ。

夕方、早くに城山観光ホテルについて。露天風呂にはいり、平日休むという罪悪感をつまみに、桜島にみとれながらビールを飲む。ビールが格別にうまい。旅には、ただならぬ出会いがあるとボクは思っている。そのただならないものが、こんな罪悪感のなかにもあるようだ。

臼杵から、初夏の空気をフルショットで浴びて九州の開通した東高速道を通りを走れば、5時間半ほどで知覧特攻平和館についた。きわめて個人的な「人生で訪れたい観光地リスト10選」のなかにそれはあった。知覧の町に入ると、道路の沿道に灯籠が立ち並び、葉桜の緑に、鎮魂へと気持ちが変わる。「桜のころ来ればきれいだね」と、おふくろがいう。

明日自分の命が消える。愛する家族、恋人、仲間ともう二度と会うことはできない。命のともしびが消えるという極限の心境で書かれた遺書を前に、おふくろは若き隊員の骨をひろうようにメモ帳に記録していた。どの遺書も日本人としての魂の根っこが大地に何十メートルも伸びているような気がした。

「父ハ スガタコソ ミエザルモ イツデモ オマヘタチヲ 見テイル ヨク オカアサンノ イヒツケヲ マモッテ オカアサンニ シンパイヲ カケナイヨ ウニ シナサイ」

このころは初めて子供がならうのは、カタカナであったらしい。

母への気持ちを綴った遺書がほとんどで、父への個人的メッセージを残した遺書には出会わなかった。「母は、偉大なのだ、そして男は消耗品なのだ」それでいいと思う。長い距離の運転者として、旅行のプランお膳立て裏方として、男は消耗品係であり、照明係なのだ。これからも暗く哀しいことがおおい。(笑)

知覧茶の新茶でのどをうるおし。茶畑の中を池田湖、開聞岳とはしる、愛媛とくらべて大地が格段ひろく開放感につつまれる。「島津家の殿様にぼんくらはいない」らしい、開拓のスケールが違う・・さすが薩摩でござる。

二日目はかごしま近代文学館の向田邦子の世界ゾーンを訪れる。100%の女性であり、「思い出トランプ」や「あうん」などを読みながら女性からみた男性を描くとき、一段とペンが輝く。スキーのジャンプで到着予定の着地点から、最後にグンと3m伸びてくるんだ、ペンが。男は女には勝てない。※そこも「人生で訪れたい観光地リスト10選」のひとつだった。

そして、29代島津忠義の本邸、仙巌園へ。入場料1000円、殿様の御殿をみると1600円になる。迷わず、殿様の御殿コースを選ぶ。これは元添乗マンからいわせれば、旅の鉄則。この特別コースにこそ「旅のこの世ならざるモノがある」

たとえば、殿様の住むゾーンには何人も入れないのだ、そこにあるのはわずか15cmの段差なのだ、この場所を宝物を見つけ気分になる「やった」と一人旅の醍醐味をかみしめる。その段差を越えると、家臣の控えの間が必ずある。そして、そこでお抹茶とお菓子をいただきツアーは終了。見事な壁の色、寝所、天井の高さ、調度品、庭の菖蒲の花のたたずまい、なんともいえない。

松山に来ても天主閣にあがらないで帰る人たちがいる。ダメです。城は天守閣のところから、石積がかわり、石落としがあり、最後の反撃の仕組みが網羅されているのだ。

そうして臼杵から八幡浜へもどるフェリーで100円の毛布のぬくもりで爆睡し、松山までの高速が工事中で、下道をひた走り、親孝行旅行がおわった。

「ありがとう」のおふくろの笑顔が何よりの人生の戦利品だ。

 今日は、こんなところです。

2016年5月30日

「少年ジャンプ」の3本柱「友情、努力、勝利」

ネタ帳ラボ!一期一会

愛媛でおはようございますを、フランス語で言うと「ポンジュース」となる。(笑)これ20年くらい前に、愛媛で名産品をつくるためにはどうしたらいいかというアンケートに書いたアイデアで、面白いと思うんですけどね(笑)

週末、「荒木飛呂彦の漫画術」という本を手にとり、ひとり「なるほど、なるほど」と深夜に呟き、スタバの2杯目100円の冷めた濃い珈琲をチビチビすする。本を読むときは、珈琲が寄り添ってくれないと放埒な気持ちが落ち着かない。外は、いやな雨がしとしとと降っている。※荒木さんは『ジョジョの奇妙な冒険』の作者です。

単行本の小さな文字は、オレに中年を実感させ、若さのエナジーの砂時計のさまを目の前にたたきつきつける。オレは抗い、そして浅知恵を駆使し、KINDLEで文字をデカくして戦うが、高島屋の前のベンチでミニスカートで姿勢良く本を読んでいる女子高生には白旗をあげるしかない。それでもこの小利口な読書スタイルは完全にITマッチングをはたし、わからない漢字や語彙は選択すると教えてくれる芸当も手の内にいれた。全文を検索できるのもいいが。ただ、読み上げ機能だけは宇宙から声がきこえてくるようで、脳はアレルギー反応を引き起こす。(笑)

「荒木飛呂彦の漫画術」 では漫画の4大構造「キャラクター」「ストーリー」「世界観」「テーマ」 を解説してくれる。そのマニアックな解説が、オレのマニアックとシンクロしていく。この作者からはアイデアが枯渇するという匂いがしない。アンテナは7本くらいはたっているだろう、それでいて自然体を醸しだす。このひとは、たとえば映画を見ていても自分なりのアイデアが浮かび、それを抄録している香りがぷんぷんする、それをあたりまえの日常にとけこませている術があるようだ。直木賞作家のコラム で「本を読んでもメモをとらない」というところが頭に浮かんだ。「頭に残らないというモノは必要ない」天才なんだろう、オレは松陰先生が読書の半分はメモせよという掟が好きだ。しょせん凡人なのだ。

ネタバレになりすぎるとまずいので、キャラについてだけメルマガに書いてみたい。

「少年ジャンプ」の3本柱をご存じだろうか、「友情、努力、勝利」だそうだ。ここで注目したいのは「勝利」というキーワード。恋物語でも、ありえない美人をてにいれる快感は気持ちいい、女を倒し手に入れるということは「勝利」を意味し、現実ではおきないことも、脳は自分の出来事のようにシンクロしている。無意識におこるのだ、鏡の前で笑い顔をつくっていると、無意識に元気になるように。その脳内ホルモンはタンパク質でできているので、納豆を食べなければならない、そういえばオレは50歳をすぎて初めて食べた納豆を最近は食べてない、これはなりませぬだ。(;゚ロ゚)

漫画の主人公はともかく勝ち続けなければならないと筆者はいうのだ。一度でもマイナスに落とすと、読書は敏感に離れていく。脳はそのようにできているのだ。ストーリーでは「マイナスの誘惑」に嵌まってはいけない、勝ったり負けたりしてはダメなのだ。常にアゲポヨ。それは困難な作業だが、「マイナスの誘惑」を断ち切ることが王道への道なのだ。なお勝利を描くなら、漫画の世界ではトーナメント戦形式は鉄板に近い、ドカベンやスラムダンク、弱虫ペダル、ちはやぶる、バグマンがいい例だ。

主人公のキャラはとことん「孤独」が似合う。読者は 「正義」を好む。卑怯者は問題外。戦うときは一人で戦い、クリント・イーストウッド のように自分だけが戦う、それこそがヒーロー像。困難をねじ伏せ、ライバルや悪という壁を打ち破り、爽快感を読者に渡す。そして、ヒーローにはウルトラマンのカラータイマーのように弱点が必要。ここに困難とエピソードをまぜあわせて彩りをつけ塩こしょうして、「起承転結」の定番で描いていくのだ。

「キャラクター というのは人の心をつかんで離さない存在であれ」

ただし、キャラというのは一人ではキャラ立ちできないことを忘れてはならない。皆気をつけろ、自分のことを自分が語っても、自慢か?と読者は思うのだ、それは現実でも同じだ。ライバルや仲間や他人に自分のことをしゃべってもらえば、自然とキャラは立つていく。課題はただひとつ、読者が感情移入し、共に興奮し、ドキドキで胸が熱くなるか、ならないかである。

 オレも思い出す。エロに多感な少年時代に誰でもとおるあの青春の一本道を、キスの練習をするために左手で唇をつくり、想像の翼を広げたことを、GOROでのイメージトレーニングを、そしてついにたどりついた彼女の白いシャツの胸ボタンを、何度も練習したワンハンドで外すテクニックを、右手の震えを押え心臓がバクバクしたあの日のことを。脳はオレたちの一歩先を無意識に感じて濡れていることを忘れないでほしい。

うーん、ここまで手の内を教えてくれる本はめったにない。主人公のプロファイリングシート、アイデアノートの書き方まで満載なのだ。

日曜日、山下達郎「サンデー・ソングブック」を2週間ぶりにradikoで聴く。

達郎さんがオバマ大統領の広島訪問について・・。

謝罪ではなく追悼という形、それに対して、こちらも謝罪を求めない。 つまりは、お互いに歩み寄るという形で・・・。非常に品格ある貴重な時代の節目だと、私は個人的に思いまして。最近、この殺伐としたですね世界情勢の中でですね、いっぷくの暖かいものですが・・ ま、いろいろな方面からですね、けなす人もいますし、ま、政治的だとかですね、そういうことも、ありますけれども。

オバマさんの個人的なその思いというのを、非常によく伝わってきたですね・・ことで。なかなかできることでは無いので、素晴らしいことだなと、私は思いましたので。 一言申し上げさせて頂きました。

殺伐とした時代に、お互いに歩み寄る・・とポツンと言葉を空に投げはなち
ボクは借りてきたデスノートの漫画12巻をめくる日曜でありました。

 今日は、こんなところです。

2016年5月23日

お守りを信じるのも才能

ネタ帳ラボ!一期一会

初夏を感じさせる夏の光が、キラリまぶしい五月!そんな夏へのグラディエーションを浴びながら、8回目のお遍路まわりへ阿波路旅。19番札所立江寺、18番恩山寺、17番井戸寺、16番観音寺、15番国分寺、14番常楽寺、13番大日寺と7ヵ寺を巡礼。

旅というのは、内蔵と内蔵がふれあうような、感動増幅装置を搭載している。停滞感、閉塞感、理不尽などを抱えていることが装置稼働オンのきっかけになるかも知れない。そのボタンは無意識のなかにあるような気がしている。

ある夏の夜。自分が主人公でミッションインポッシブルの主役を演じる夢を見る。オレは本編とは全然違うミッションがあたえられ、主人公になり、時に想像を絶する失敗をして朽ち果てる。そのストーリーは自分が意識してつくったものではないんだ、無意識に脳がなにか時空をゆがめたように演出してくれる。なぜか、マブイ女とのラブシーンはない(笑)ここで不思議なのは主人公なるオレは、流暢な英語や、フランス語を話していないことだ。不思議か、不思議じゃないだろ。すべては夢は過去の貯蓄のミラクルな組み合わせじゃないの?これって?無意識というのは人知が及ばない世界。それを脳は勝手に組み合わせてくれる、鍛えれば無意識が、いいメロディを奏でてくれる。禅の世界なのかな・・・。

人生は、無駄な金と、無駄な時間でできている。そのくだらないモノだけが、無意識に振り子の幅をでかくするようだ。

しかし、あまりにも平和すぎる、このお遍路の旅でボクはそんなモノに少しでも出会えるだろうか。お遍路ってなんなんだろう。まあ、それでもきっと100年プリントに出会えるだろうと思えるのは、お遍路に飽きてないという純粋な気持ちだ。恋も飽きる、夫婦関係も飽きる(爆)オレは、お遍路に飽きてないのだ、確かに。(^O^)消化試合のお遍路だけにはしない。

さて、18番恩山寺で摺袈裟(すりげさ)という、四国八十八カ所の中でも隠れたお守りを買いました。皆さんは、宗教やお守りを信じますでしょうか?このお守りを見つめながら考えるんですが、お守りを信じるのは、才能。信じないのも、才能。

人見知りなども、自分の才能だと思えば力強く才能になるんじゃない。

人見知りは、引っ込み思案で、社交性がないとか、長いものにまかれるとか、そんな傾向を言われる。逆に言えば他人への観察力があるから、嫌われるようなことも呑みこむことができる。

人見知り君の想像の翼は、こう言ったら相手が喜ぶということも、無意識のうちにきっと想像できているんだ。何度も、何度も自分に浴びせられた嫌な気持ち。過去の記憶も含めて、才能なのだ。モテない男やモテない女は謙虚という毒薬をいつまで飲んでいるのだろうか、謙虚というのは褒めてもらいたいための裏返しじゃないの。謙虚は、生ゴミのようになかなか捨てられない。たまには捨てちゃえ。(笑)もう、すでに謙虚なんだから。もうオレの謙虚は、箸にも棒にもかからない時があるのは間違いない。(笑)

夏目漱石は「愛嬌というのはね、自分より強いものを倒す柔らかい武器だよ」と、いった。謙虚も武器にすると才能になる。

さて、日曜日は親父の49日で親戚が集まりました。
いろいろ寄り添いあったこの何年かは、家族ということを考えさせられる大事な日々でした。会話ができなくなっても、毎日病院に通う母を見ながら、夫婦の本当の愛を少しばかり勉強させられました。今日喪が明けて、足下に再びスタートラインを引いて、スタートです。

久しぶりに自転車を倉庫からだして、ブレーキなどを全部新しくして、ペダルをまわす。夏に向かう風は、自分がとかく伏目勝ちになっていた気分を変えてくれる。

荒野を駆け抜けなければ(^O^)

2016年5月16日

オレたちは荒野であの「ハッピーターン」を探す

ネタ帳ラボ!一期一会

最近、めっきり興奮することが少ない。(笑)世の中もそんな気がする。

先週で考えると錦織圭の放埒なテニスだけが、興奮の種だった。彼はジョコビッチとのイタリア国際で途中から、邪気を放ちながら、赤鬼となり怒りを少しばかりむき出しにしてきた。その瞬間に何かが膨らんでいくのがわかった。

さて、オレのばあちゃんは明治の人だった。小学1年生の夏休みに泊まりにいった。

その1日は今でも鮮明に覚えている。お竈(くど)でご飯を炊く。小斧で木材を細かくするのを手伝った、乾燥した松葉をいれて、徐々に火をおこしていくことに子供のオレの脳はチンパンジーのように興味を示した。人類というのは、この火を使い、料理を加工し、料理を開拓した。獣達が狩りをして、そのまま生肉を食べるのとは根本的に異なる。火を使うことが人間を人間にしたのだ。なにせ衛生的だ。いつでも料理できて、最大のメリットは栄養というエネルギーがとれたことだ。おまけに暖もとることができる。

親父は入院中、誤嚥肺炎になって栄養を点滴でとりだしてから、こちらがしゃべる言葉がわからなくなっていった。その時思ったんだ、噛んで食べるということが、どれだけ大事かということを。咀嚼(そしゃく)することで顎が鍛えられ、脳も刺激され、声帯が発達して言葉をしゃべれるようになったのだろう。くだらない仮説だが、チンパンジーに火を使うことを教えられたら、何万年後には人類が誕生するかも知れないというのは大胆すぎるだろうか?

今はご飯を炊くのは20分もあれば、早炊きでご飯がたける。便利になりすぎた、電子レンジ、冷凍食品、だしのもと、時短料理のオンパレード。そこで産み出された時間というゆとりで、人はテレビをみて、スマホに向かいあい、自分と向かい合うことを忘れている。興奮が身の回りにないと、自分で打ち上げ花火を発射するのは無理だ。発射台に打ち上げ花火を載せてる人はどうやらすくない。

さてさて、アダムとイブが禁断の果実を食べて、いわゆる無垢から意識をもつようになり、局部を隠すようになった。恥じらいという、自意識の目覚め。今日はくだらないことを書くけど、ホモ・サピエンスは、偶然にも必然にもワインをつくったのではないだろうかと仮説をたてる。(笑)ある種族では、ワインを秘伝の方法でつくることができた。その種族は体格が一回りも、二回りも大きかった。ワインの効能のポリフェノールが、老廃物の排出、ピロリ菌の退治、老化防止、骨格の構築の効果を生みだした。肉食とワインにより脳が発達した、それがホモ・サピエンス。ワインは人を饒舌にし、会話を加速させた。

動物たちのセックスはOPENで、親さえ誰だかわからないが。脳が発達したホモ・サピエンスは一緒に食事をしワインのもたらす高揚感は人と人を近づけた。セックスした相手を好きになった、光源氏現象だ。(笑)たぶん、ワインによりセックス時に何らかの惚れ薬のような分泌液ホルモンが放出され、それは愛情のようなもので、あるときは母乳を通じて伝わり赤ちゃんにも愛情ホルモンがゆきわたった。この予想の大事なところは、セックスが先だということだ。セックスにより惚れ薬ホルモンが受けわたされたのだ(笑)今でも見られる・・。

20世紀のアダムとイブ、ジョンレノンとオノヨウコは語った「人間の大半は土曜の夜に、ウイスキーのボトルを、空けた勢いで産まれてくんだよ」と。新しい求愛として音楽が誕生した。時が変遷すれば、脳は派生して変化し、パブロフの犬のように、鈴が鳴ることでよだれが出るようになった。セックスする前に、セックスを感じるようになり、言い換えれば、思い込みで相手を好きになれた。近年ではセックスは何度か会ってワインを飲んで、相手を値踏みしてからというようになってしまった。その先は、もっとひどいが長くなるので割愛。(笑)

そして、オレは思う。高度な高齢化社会になってきて、大事なのは。「セックスより(・・・と同等)興奮できるモノ」を見つけておかなければ、ならないということ。小さな塊でもいい、錦織圭のテニスか、読書か、ワインにこだわるか、宮沢りえの「サンタフェ」を古本屋で探すか、再び「カミカミするめ」という伝説の一物を探すしかない。俺たちは荒野を歩いているのだ、そして荒野の思考を今試されているのだ。

最後に明治のばーちゃんの話をしたい。それはオレたち3人兄弟がばあちゃんと会話していた時のことだ、ばーちゃんは「ハッピーターン」というお菓子が好きだった。「ハッピーターンおたべ」とおばあちゃんに勧められた。妹がおなか一杯だったので、「お腹いっぱいなので、ばあちゃん食べて」と答えた。オレたちのまえに置かれた「ハッピーターン」は寂しく凍り付いた。

すると、おばあちゃんの顔色が明らかに変わって鬼婆になった、「なんで美味しいのにハッピーターン食べんのよ」と、言うなり。右手を振り上げた。そして、「ちはやぶる」ではないが、百人一首で当確のカルタを見つけたように、その手を振り下ろし、「ハッピーターンおいしいのよ」と言いながら、カルタ(ハッピーターン)を右手でたたき込み、ハッピーターンに一撃を加え、彼は横に跳んだ。おびえるオレたち兄弟の目線の先には、障子を突き抜けた軌跡があった。

いまでもその光景に、オレたちは興奮を押えられないのだ。(笑)まさに、ハッピーターンである。

英語名をハッピーターン(英名:Happy Taaaaaan)という。このお菓子にまぶされた、合法麻薬は人をかえてしまうようだ。表面だけ舐めるという種族も見受けられる。一度摂取すると、もう後戻りできない(笑)

このメルマガを読んで、あなたが今日コンビニでこの「ハッピーターン」を見つければ、買わなくてもいい、必ず一度手に取ってみてほしい。そこには、人間の脳の煩悩を見ることができるだろう。(笑)

2016年5月9日

猫ひろし、カンボジア代表についてコラム

ネタ帳ラボ!一期一会

今日は朝4時に起きてオフィスへ。しんしんとするオフィスに、サーバーの安静な
吐息が。早起きは16文キック気持ちいいものです。

今日のメルマガ何を書こうかなと、YAHOO!のトップニュースを見ると面白記事が、

「猫ひろし、カンボジア五輪代表選考会で優勝…五輪条件揃った!最終結論待ち」

”カンボジア国籍を取得し、同国代表として今夏のリオデジャネイロ五輪出場を目指している、タレント・猫ひろしが8日、カンボジアで行われた、リオ五輪の「カンボジア代表選考大会」のマラソン競技で優勝した。(デイリースポーツ)”カンボジア国籍を取得し、2月にはカンボジア代表として東京マラソンに出場し、カンボジア人選手としてシーズン最高タイム(2時間34分)も記録しでいるとのこと。

ボクはこんな「猫ひろし」好きだなとか考えていた。日本では到底マラソン代表は無理で、カンボジアでなど・・それは邪道で出鱈目なゲスの考えることと批判する人もいるだろう。昔なら「それでも侍の子か」と声を上げるだろう。さりとて、さりとてだよ、男としてオリンピックを走りたいという願望は、ただならない葛藤なんだろうことは誰しもが察しがつく。人がいとも簡単にあらゆることに、投げやりになるのに比べれば、なんと強情で意地っ張りな男だと思いながらも、自分の才能を最大限に発揮し、血路を開いていくこの男を、なぜか恥ずかしいとは言えない。すくなくとも、僕は好きだ。

そして、4年前のロンドンオリンピックは 国際陸上競技連盟が国籍取得が性急すぎて「参加資格なし」と判断したらしいが、それから4年という時間は彼を許すだろうか?彼はこの4年間人に優しくなれただろうか?彼がもし、カンボジア代表になればそれは間違った幸福と人は言うのだろうか?

どうもゴールデンウィークに五木寛之先生の「親鸞」の長編を6巻読んだので、眠っていた細胞が変に自分の中でスパークしたようだ。(笑)どうもなんでも深掘りせずにはいられない性分が蘇ってくる。吉田松陰先生は明治維新の震源地で「万巻の書」、つまり1万冊の書を読めと言っている。獄中の4年間で1460冊の書物を読んだという記録があるらしい。つまり1日1冊、しかも抄録といって要点を書き出しながら読むというのが松陰先生の心を鍛える読書術。

 あわせて講孟箚記(こうもうさっき)という松蔭本もGWに手にとった。この本は獄中での松陰先生の講義の内容。なんだこれは、読めば読むほど頭のさきが混乱でいたくなってくるではないか。とてつもない24歳の化け物を見てしまった。黒船に乗り込んだあと江戸伝馬町の獄、長州の野山獄、幽閉された松下村塾でこの1000ページにも及ぶ講義をしたというのか。放たれる熱量は抜き差しならない。ひとり、自分の心を焦がしながら、日本を憂いながら・・。この本は松陰先生の香りが伝わってくる。と、同時にこの松陰を教育した。叔父、玉木文之助という、狂気じみた存在が気になってしょうがない。

 それにしても・・・読みにくい、噛みにくい。妖怪みたいな本だ。(笑)イントロ程度ですすまない。

 さぁて、本日GWあけ。

 土曜日マイブームのトットてれびをみながら、向田邦子さんが予知的に登場するシーンの美しさにドキッとする。ミムラさんという俳優らしい。向田邦子さんは無名の頃3ヶ月のサラリーを1枚の水着にかえたというのを、何かの本で読んだことがある。それだけで、彼女の何かしらかのこだわりがつたわってくる。そして、「花咲かじいさん」とか、「かちかちやま」とか、おとぎ話に登場するのは、おじいさんと、おばあさんそれに赤ちゃんだという。ロマンスがない。なるほど、さすが家族ものを書かせたらNO.1の女流作家の視点は面白い。

 これからドラマでどんな感じで、黒柳徹子さんとドラマにからんでくるのか楽しみ。夏頃、鹿児島の近代文学館に彼女の息づかいを感じに行きたいなと思っています。

 「今日の読書こそ、真の学問である。」松蔭

 今日は、こんなところです。

2016年4月25日

厄払いで全国に有名な23番札所薬王寺にて

ネタ帳ラボ!一期一会

オフィス前の花水木通りの5月のハナミズキの淡いピンクは、洗濯機に洗われた空をバックにすれば、ふんわりとして心に安らぎという変化をあたえてくれる。桜の花の葉桜の姿より、葉姿のハナミズキが一段と美しいのはなぜなんだろう?そんなことをふと考えた。

出会いと別れの季節をつげる「桜」は、純真無垢に咲き、盛者必衰の儚さを奏でるように、それはそれは見事に舞踏し散りさっていく。その散り様はいかにも日本人の死生観を投影しているようで、この花を見るたびに桜JAPANを連想させてくれる。そして、ハナミズキという日本産リカちゃん人形に対抗して、登場したバービー人形のようなこの花は、アメリカからやってきたらしくファッショナブルであり、街路樹ともなれば、自信に満ちあふれたようなエネルギーでランウェイをつくる。

一年に一度、この二つの花の共演の連続は、安心してみていられる、心の平穏と必然の法則をおしえてくれ、くだらない見栄や欲など捨て去り、あるがままにと語りかけてくれる。

さて、そんな仏教僧のようなことを書き綴りながらも、頭の中は煩悩の塊である。頭の中は「セーヌ川公園で芸術的にキスするカップル」をいつも思いだし、野心的なオスを生きている。セーヌ川のキスより、興奮するモノがないと男はアウトだと言い聞かせながら・・・。

そしてさて、お遍路逆打。バスは、逆打の御利益効果の宣伝が行き届いたように満員でござり、なんとも女性の参加が多いこと。トラベリングバスは23番札所薬王寺へ。「発心の道場」といわれる阿波最後の霊場、お大師様が42歳の厄除のため薬師如来像を刻み、伽藍(がらん)を建立して安置した縁起があり、全国でも有名なお寺らしい。

お遍路ではご本尊様が、薬師如来のお寺が多いんですよね。昔のお医者さんとでもいいましょうか、古来から病気治癒や除病安楽などで巡礼されるかたが、すがるように光をもとめて来られたんでしょうね。なるほど、「おなつかしゅうございます」という境内の空気がしみこんでます。

巡礼をおえて山門で一礼をしているときに、酸素吸入器をつけたご老人を寝台にのせ家族が囲むように祈ってらっしゃる姿に出会った。「人は死んでいくのだ」、かけがいのない人生の一瞬を記憶にとどめなら・・。家族が父を見送ってあるく長い長い慈愛の一本道がそこにみえました。

ところで、ちぃっくと厄払いの薬王寺で思ったのです。生老病死、災難というのは、ひとを立ち往生させ、ため息をつかせ、あまりにも無常であるということ。そして、それを断ち切るために、現世利益をもとめている人が切実に多いこと。報われたいのだ、どうか、この人生の辻褄をあわせてくれと大勢来ているのだ。(^^;)

しかし、お賽銭は15円(5円玉3枚で十分ご縁)なのが、なりませぬ。

パチンコでは投入機に1万円を無心でいれるくせに、浄財のお賽銭箱にはなんと、みみっちい、しみったれた、けちくさい金額しか入れないモノか。なぜ、できないのか?お前はポンコツか(笑)と自分をなじる。

実は、先日、倫理法人会の講演で、会社の会長が 数十万円を地元の神社に「地元の街が平和でありますように」とお賽銭にいれた話をきいた。音がしない、賽銭というのはイイモノだと実感した。そこで早速実行に移した。普通では面白くないと、薬王寺では、お賽銭を巾着袋に満タンにして、水戸泉のようにわしづかみして、丁寧に音をおさえて賽銭箱にながしこんだ。

「世の中が平和になりますように」と・・・通常ではありえないことを祈願した。(笑)そして、家族の人数分の厄払いのお守りを買いもとめた。

家に戻ると、息子が柔道でいつも優勢負けする、宿敵に勝ち優勝したという。高校生活で初めて勝った、しかも1本で。さすが薬王寺の厄払い!即実践、信じるモノは救われる。(笑)

しかし、なりませぬなこともあった。今日は玄関の履き物が乱れまくっていた。

当家では、息子に毎日履き物を揃えることを課している、やっとこれが定着してきた。「家に帰るとね、履き物がそろっているんでめちゃ気分がいい」、と息子をよいしょしながら始まったこの儀式。最初はそろうと500円を払い飼い慣らしていたんですが・・。(^^;) 今日はダメ。「勝って兜の緒を締めよ」と唇のさきまででかかったが、「そのくち閉じよ」と天から声がしてなにも語らず・・・まだまだ未熟やな・・・「太か男になれ」と念じながら、自分で履き物をそろえ、息子の履き物だけをあきらかにわかるように真ん中に置いて(笑)、父は荒野に眠るのでありました。※当家はマンションです。(笑)

2016年4月18日

「私」が「私」であるために

ネタ帳ラボ!一期一会

おはようございます。クレストデジタルズ渡部です。

深夜に緊急地震速報を伝える、スマホのアラームが鳴った。(松山市、震度4)すぐさま、枕元のSONYのラジオに手を伸ばす。1秒で起動し「強い揺れに警戒してください」と甲高い声がきこえる。アナウンサーは冷静さを保ちながら、汗ばんだように原稿を読んでいる。

熊本、阿蘇と中央構造線状で地震が起きているので、愛媛もあぶないかもと、朝までラジオをつけていた。スマホには甲高いチロリン・チロリンのアラームが何度も届き、被害の大きさがだんだん伝わるたびに、寝れなくなった。

「あきらめないでください、必ず助けは来ます」のアナウンサーの呼びかけ、朝まで、暗闇の中でラジオをつけながらボクは布団でもがきながらすごした。

朝になり、もやもやをかき消すように、スタバにコーヒーを飲みに行く。店内にはボクしかいない。「決して、諦めないでください」という言葉が、まだ、頭をぐるぐる廻っていた。砂漠のような荒野で飲んだような珈琲の苦みで、思考停止から救済されたような気分になる。怠け者に用意されたような、お膳立ての珈琲味がしみている。

人間というのは「言葉」に敏感だ。

病院で病名でも伝えられたとたんに、エネルギーが吸い取られたように元気が無くなる。告知というのは本当にいいのだろうか?「手術前に成功の確率は・・」などと告げられると寿命が短くなるような気分になるのではないだろうか。「私」が「私」でなくなり、厄介なことになる人の方が、多い気がする。

スマホに向き合う時間が圧倒的に増えている。

自分に向き合う時間は着実に減っている。

SNSで言葉があふれかえり、LINEで既読になっても返事が来ないとイライラするらしい。もうこれはマスターベーション覚えたての猿みたいなものだ。(笑)便利になった副作用はおそろしいもので、「私」が「私」でなくなっていく。

地震が起きると、様々なイベントプロモーションが横並びで自粛されている。サッカー日本代表FWの本田圭佑選手(ACミラン)は「様々な分野で自粛のニュースを目にしますが、僕は自粛するのは間違ってると思います」「僕にできることは微力で何もありませんが、日本人としてイタリアからただただ気にしてます。心配してます。応援してます」とコメント。その上で「こういう時だからこそ、各々(おのおの)に与えられた役割を行動に移すことが求められているんじゃないでしょうか」と訴えた。

安全圏内にほめられるものを求めたりする世の中で、本田選手の言葉は力強い。誰しも、こんな気持ちを持っているのだけど、「私」が「私」を殺してしまっているのだ。「抑圧された自分」「とりあえず横並びスタイル」、どうしちまったんだ?時代や環境に流されて。「自分で決める」という「私」が成仏して、背後霊になっているんじゃないか。

その日地震報道をつたえたNHK ニュース7。最後にNHKの高瀬アナが疲れた顔をきりっとさせて、「避難所のみなさん」と呼びかけた。

「避難所の皆さん、お年寄りで、一人でいる方に声をかけてあげてください、お子さんがうるさいので、外にいるお母さんにも声をかけてあげてください。みんなで声をかけあって、どうか今夜を乗り切ってください」

いい言葉だな・・・と、言葉の呪力のようなものを感じた。

「私」が「私」であるために・・。

がまんならない、こらえられない、伝えたい、背後霊をたたきのめしてしまえ。冬眠してしまった、「あなたが捨てた私」が本来の私ではないのか。

 今日は、こんなところです。

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